| 要旨トップ | 目次 | 日本生態学会第65回全国大会 (2018年3月、札幌) 講演要旨
ESJ65 Abstract


一般講演(ポスター発表) P3-114  (Poster presentation)

農村内部における里山資源の利用形態 ―聞き取りと地域史料から―

*片岡博行(重井薬用植物園)

明治期には各地の農村において、老農と呼ばれる人々により乾田馬(牛)耕、種子の塩水選、購入肥料の使用などを柱とする「明治農法」が確立・普及した。これは中世より続けられてきた従来型農法を体系化・発展させたものであり、それまでの農法に比べて飛躍的な収量の増加をもたらした。本研究は、岡山県の中央部に位置する吉備中央町内の旧大和村地域において、昭和初期~第二次大戦後頃までの里山利用および家畜飼育を含む生活の様子について聞き取り調査を行うとともに、同地域の1870年の村法「山荒規定書」、旧大和村役場「統計材料報告綴」といった地域史料より、明治農法期の里山(農用林)管理の実態について明らかにすることを目的とした。

旧大和村地域における明治農法の普及時期は、1898年の農会の設立前後と考えられる。農家数570戸程度であった同地域では、耕地の乾田化の進展に従い、牛馬飼育数は1907年頃には210頭であったものが1916年には430頭と倍以上に増加している。また、水田における収量は、1902年には1反当り0.83石だったものが1916年には1.87石と、これも倍以上となっている。これら収量の増加の一因として、魚肥、油粕、過リン酸石灰、硫酸アンモニアなどの購入肥料の投入があるが、肥料購入の原資をもたらしたのはマツタケをはじめとする里山からの林産資源であったと考えられる。

また、里山から採取された柴草・落葉、あるいは田畑からの稲・麦藁などの資源は、明治農法の普及以前には、堆肥あるいは緑肥として直接田畑に投入されていたが、牛馬が飼育されるようになると、飼料あるいは厩の敷草としての利用を通じて厩肥として利用されるようになるなど、田畑に投入するまでの経路および処理については明治農法普及以前と後では変化があったものの、資源の供給源としての里山の利用形態にはさほどの変化はなかったものと考えられた。


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