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会長からのメッセージ −その14−

「締め切り」

 口頭発表の時間のつぎは、締め切り時間の話になる。 

 小心者である私にとってこれほど厭な響きのものはない。締め切りと思っただけで、手がすくんでしまい、頭が硬直してしまって、文章を綴るどころではなくなる。

 ところで、世の中はそんな小心者ばかりではないようである。締め切りといえど一向にあわてない。前日や前々日までは悠々と構えていて、その頃から猛然と馬力をかけ、前日は徹夜で、締め切りにはなんとか間に合わせてしまう。こんな大変な思いをするくらいなら、この次からはもう少し早くから準備をしたらよいのにと思うがそのようにはならない。そして次のときも、締め切り間際に力をだすのである。締め切りがのびても、そのぶん早く出来上がるわけではない。締め切りにならないと力が出ないというか、むしろ、締め切りをエネルギー源として馬力をかけているとでもいったらよいだろうか。極端にいうと締め切りがなければ仕事ができないということになる。

 そういう芸当のできない小心派であるところの私は、締め切りにどのように対処しているかというと、締め切りが怖いので、近寄らないようにする。有名教授ではないので、そんなに原稿を頼まれるわけではないが、それでも頼まれる。断ってしまえばよいのだろうが、小心者なのでそれはできない。それより、なんだか面白そうだなという気持ちのほうが強い。それで、引き受けたとたんに文章を書いてしまう。面白そうだと思っているうちに書いてしまうのがよい。これだと締め切りを心配することはない。場合によっては引き受ける前に書いてみる。だから締め切りの数ヶ月前とか1年前とかに大体出来上がっている。出来上がった原稿は誰かに見て貰う。大抵は年下の「先生」に見て貰う。というか、同業者はだいたい年下の方々になってしまった。昔、私が教えたことのある人である場合が多い。「原稿をみてくれるほどに、偉くなってくれたか」といったたぐいの感懐を催すことはない。もともと彼らのほうが偉かったからである。

 小心派であることのメリットは締め切りを気にしなくてよいというだけで、他にはない。デメリットはいっぱいある。一つは、いざ投稿というときに原稿がどこへいったものやら解らなくなってしまうことである。近頃は、コンピューターの中にあることは確かであるのだが。それでも、どのファイルに何という名前で片づけたものやら。またファイルがたくさん出てきて、どれが最終原稿だったかしばらく解らないということもある。講演や講義の準備であると二度手間、三度手間になる。前の日に準備して翌日講演するなどは楽だろうなと思う。ずいぶん前に準備して、途中で忘れて、また準備し直して、また忘れて、1週間前にまた準備して、前日見直して、当日の朝も見直している。こんな馬鹿なことをしていてよいのかなどとふと思う。よほどの暇人であると見られてもしかたがない。分担執筆の本などの場合は、なかに必ず、大幅に遅れる人がいる。そうするとどうなるかというと、私の書いた部分だけが、かなり古くさい内容になってしまっているということになる。ま、それほど新しい研究をしているわけでもないのだが。

 このように締め切りには気を遣っていても、人生の締め切り時間が近づいてきていることはいかんともしようがない。最初は音もなく、最近はその足音が聞こえるようになってきた。

▲ 千枚田 去年、石川県に来たばかりのときに能登半島の先端まで行った。輪島の先の千枚田のスケッチです。