最近私の書いた論文のなかで、Aという文字の上に山型の記号の乗ったAハットという文字が出てくる。Aの平均値という意味で使っている。そういう場合は横棒(バー)を乗せたAバーという記号を使うものじゃないですか?そうなんですけど、キーボードをいじっていたら、Aハットというのが出てきたもんで、これにしたのです。それからなにか偏微分の記号みたいなのも使っていますが、原稿ではデルタというギリシャ文字を使っていたのだが、校正を見たらこんな記号になっていたので、直すのは面倒だからそのままにしておいたのです。というより直せば、それがもとで間違いが生じる可能性があるので、このままのほうが安全と判断したのです。どんな記号でも分かればよいということでこだわらないのだ。自分では神経質だと思っていたけれども、アバウトな人間と言われても仕方がない。
庭でつかまえた昆虫を図鑑と照合する。大体は絵合わせで、図と実物を見比べる。これかな?これに似ているが。横から妻がのぞき込んで、ここの部分がちがうじゃない。などという。言われてみればその通りだ。僕はどうも細かい違いを見つけるのは得意ではないようだ。昔、違いの解る男、というコピーでインスタントコーヒの宣伝をしていたな。湯気の立つコーヒ茶碗を持って、人気作家が写っていた。さしづめ僕は違いの解らない男である。
これは、僕にとっては一つのコンプレックスであった。人が直ぐに気づくことがなかなか解らないなんて、注意力散漫じゃないか。しかしその後、「違いが解らない」のは逆に「違わないことが解る」という側面を持つことに思い至った。持って生まれたものか、それともその後ならい覚えたものかは解らないが、「違いが解る」か「違わないことが解る」かはそれぞれ人の特色なのだと思う。前者は分類学に向いていて、後者は生態学向きかもしれない。しかしそうではなくて、どちらも必要なんだろう。分類学者にも「まとめや」などという人もいる。
違わないことが解るとは、僕においては、別々に説明されていることが、一つの理屈で説明できるのではないか?という疑問を持つことにつきる。最初にそんな疑問を持ったのは、穂積先生他の森林樹木のサイズ構造に関する式が、篠崎・吉良の密度効果の式と同じ形式なのは何故か?ということであった。大学院生の時代である。ただそういう疑問をもつ人は他には居られなかったみたいだ。だから人による、ということなんだ。ずっと後に篠崎先生にこの問題をぶつけたら、違う関係に同じ式が使われるということは、世の中にいっぱいある。と軽く一蹴された。それはそうですね。直線なんてのはなににでも使われるのだから、それをいちいち思い悩んでいてはきりがない。
しかし上の2つの式の関係は僕には不思議であった。この問題は30年間考え続けて、ようやく解けた。上の2つの式の他に、自己間引きの式との関係も理解できた。これは単著論文にし、私に理解できなかった部分は、当時生態研の院生だったK君が解いてくれて、共著論文で発表した。
その他、私には、あれやこれやの統一的理解に向けてなどという題名の論文が2,3ある。また統一理論というような大げさな発表題名をつけて口頭発表し、顰蹙をかったこともある。実は、最近書いた論文もそういう題名である。最近はまた、篠崎・吉良式が藤田・内田式と同じなのは何故かなどということを考えて喜んでいる。そんなん、当たり前じゃんとか、古すぎるとか言われそうだが。
▲京都大学生態学研究センターの今の立派な建物が出来る前、京都分室というところにしばらく勤務していた。理学部植物園の中であって、そこにキクイモを植えて、卒研生の八木誠君、亡くなった大音雄司君などと一緒に測定していた。そんな古いスケッチを何故出すかというと、そのデータを使って、研究発表をしようと目論んでいるからである。