作家の永井荷風は墨東奇談とかうでくらべなどの小説で知られている。文化勲章受賞作家ではあるけれども、今は読む人などあまりいないだろう。しかし彼の名前がずっと残るであろうというのは、長年にわたって書き続けた日記、断腸亭日乗による。荷風はそれ以前にも断続的には日記を書いていたようだが、死ぬまで欠かさず書き続けたのは、大正7年からであるらしい。それ以来死ぬまで、亡くなったのはたしか昭和30何年かだから、40年以上毎日欠かさず、執念をもって書き続けている。途中、関東大震災とか2・26事件、それから東京大空襲などがあり、大空襲のときは荷風も焼け出され、逃げ出しているが、そのときも日記は離さず持ち歩いていた。
したがってこの日記は近現代史の貴重な資料となり、いろんな人が引用している。それも、この日記に正面から取り組んだ研究もあるが、対照区のように、この時、ふつうの庶民はどんな暮らしをしていたか荷風の日記を見てみよう、などと使われることも多い。
山田風太郎という人は忍法小説などで有名だが、自身も、戦中派不戦日記とか戦中派闇市日記とかの日記も残している。面白いのは、人間臨終図巻という本で、別に図を集めたものではなくて、いろんな人(結局は有名人ということだが)の死に際を諸文献から抄録して集めた物で、スターリン、毛沢東、ルーズベルト等の人たちの臨終間際のことが色々集められていて、それが、死んだ年齢別に配列されている。まあ奇書といってよいだろうな。同日同刻という本もあって、これは歴史的な日にいろんな人たちがどんなことをしていたかを並べて見せた物で、1941年12月8日、つまり日本が真珠湾攻撃を行い、米英蘭との戦争に突入した日と1945年8月15日にいたる10日間、つまり広島に原爆を落とされた日から、日本がポツダム宣言を受け入れて、連合国に無条件降伏した日が対象になっている。そのなかにもちろん荷風の断腸亭日乗は貴重な資料としてとりあげられている。
半藤一利という人は、その8月15日のことを日本の一番長い日という本にまとめておられる。その他にノモンハン事件をとりあげた本などは名著だと思うが、最近は昭和史が有名である。そのなかでも荷風の日記はあちこちで取り上げられている。実際この人は荷風ファンで、荷風さんの戦後なんていう本も出している。
断腸亭日乗は岩波文庫に抄録本が前後2冊で入っている。僕は最初それで読み、そのうちそれに飽きたらず、図書館に通って、全集を通読した。その後1冊1冊と自分で買い揃えて、日記全7巻を揃えた。
ところで今日のメッセージは荷風の昭和史を紹介することではなくして、荷風日記が植物開花フェノロジーに関する記録の宝庫であるということだ。そもそも断腸亭というのが、カイドウの花からとられた名前らしく、荷風旧居の書斎の前に植わっていたのではなかったか。その後荷風が移り住んだ東京市麻布区の住まいは偏奇館と名付けていたはずである。その麻布の市兵衛町に古いサクラの木があり、それは「市兵衛町表通宮内省御用邸塀外に老桜数株あり、昨日あたりより花満開となれり」と記述されている(大正10年4月9日)。その他、上野公園のサクラ、隅田川堤のサクラ、吉原のヤエザクラ、桜以外だとシャガ、山吹、あるいはウグイス、鵯などにも記述が及んでいる。
例えば大正7年4月4日の記述には桜花将に開かむとす、とあり、また4月16日には靖国神社の桜花半ば落ちたりとあるから、満開はこの中間だろうと見当をつけることができる。大正12年3月は、京都に遊び東山の桜を見ている。「京都駅に着し東山ミヤコホテルに投宿す。此日暖気5月の如し。祇園の桜花忽ち開くを見る。」(3月28日)ただし、東京に帰っても桜は未だであった「東京の桜花は未だ開かず。」(4月1日)荷風日記を読み込んでいくと、毎年桜についての記述がある。4月6日にいたって、いきなり「近巷の桜花爛漫たり」というような記述が出てくる年もあるから、開花日・満開日が全て正しく解るわけではないが、一応見当はつく。大正から昭和初期にかけては、東京の桜は大体、4月になってから満開を迎えていたようである。
断腸亭日乗からデータを集めて、近年の気象台資料とつなぎ合わせ、サクラ開花日の長期的変動と地球温暖化について議論しようというのが私のもくろみなのだが、それはまた次回以降に。
▲昨日は京都大学生態学研究センターの運営委員会のために久しぶりに京都へ行って来ました。