自然保護委員会に顔を出してみると、副委員長のSさんが熱心にしゃべっておられるところであった。国有林における不法伐採問題に議題が進んでいるようである。この問題については河野昭一さんから事前にレクチュアを受けていたので、国有林は木材生産から方針転換したはずなのにおかしいな、と思いつつも、承知していた。というよりその話をうかがいに重い腰をあげて、第54回日本生態学会大会での自然保護委員会に遅れて出席したというわけだ。
自然保護委員会は地区会の活動に基盤を置いている。地区の会員が実際に研究し、あるいは活動している自然について持ち上げられた情報をもとにして、自然保護委員会が検討されるわけだ。たとえば、北海道のえりもー平取間の森林とか細見谷の森林とかの個別具体的な自然についてである。しかし今回の問題はもっと大きい、国有林全体の問題であり、従来の自然保護委員会の活動スタイルには合わないのかも知れないな。自然保護委員会で扱いきれないとしたらどうすればよいのか、というのが私の心配事の一つであった。しかし、それは杞憂であった。帯広のKさんが、そうするとこの問題は国有林野行政そのものに「もの申す」ということになるわけですね。と、的確に情勢を把握した発言をされていた。何も私が出しゃばるまでもなく、おまかせしておいてよさそうである。
個別具体的な自然であれば、この場所はこんな低い標高なのにナキウサギが生息している珍しい自然である、とか、この渓谷のブナ林は実に美しい景観であるとか、ツキノワグマが生息しているとか、個別の保存すべき理由がある。しかし天然林一般ということであれば、「一般性のある」議論が必要になるのではないだろうか。その点についても私などが心配をすることではなく、Kさんは「私の学生時代に吉良龍夫先生が日本生態学会誌に原生林保護についての論文を書かれています」と紹介されていた。
吉良先生の論文は1964年のもので、その後1972年に出版された依田恭二さんの教科書「森林の生態学」にも再録されている。いずれにしても若い会員にとっては大昔だ。そんな大昔の文献に頼らなければいけないようでは、われわれに進歩がない、困ったことではないのか?それとも、原生林を守らなければならないという意義については急に変わるものじゃない、といった方がよいのだろうか?吉良論文は森林の機能について色々書いてある。たとえば、森林は林床に水をしみこませ地下水として蓄えるという機能がある。「しかしそれは原生林でなくてもスギの人工林にもある」と書かれている(ただしこの部分は依田本では省略されている。論理の乱れを正し、より透徹させるためだろう。)また、今でいう生物多様性についても議論されている。そういう言葉はなかったので、種数について書かれているが、種数は極相林で最も大きくなるような飽和曲線が当てられている。しかし手塚泰彦先生の原図では、種数は遷移途上の林の方に多く、今で言うところの中規模攪乱仮説を示している。吉良先生の頭に、原生林でこそ種数も多くなるという思いこみがあったのだろう。論文の結論は原生林は極相林であり、安定した森林であるから、我々が土地利用などを考えるに当たっても、そこから多くを学ばなければならず、その意味でも原生林は残さなければならない、ということであったように記憶する。バランスのよい妥当な結論だと思われる。広く原生林から学び、それを深く理解するためには、多くの原生林が長期にわたって保存されている必要がある。ただそのことを狭くとって、原生林を研究するのが生態学者(だけの)つとめであるとすればどうか?
原生林の機能のうち人工林などでも代替できる機能をどんどんはぎ取っていって、原生林でなければならないというものだけを残すと「原生林は生態学者が研究するために必要である」ということになってしまう。もし、生態学の研究というものが「自然を守る」ということに関わるものであり、何故自然を守るのかに対する答えが生態学の研究のためである、ということになれば、この論理は永久に循環を続けてしまうのではないか。これは、吉良論文を読んだときの40年前の私の感想である。依田本は吉良論の何年か後に出たはずであるが、それにもかかわらず、師匠の論文を再録するなんて先生離れしてないんじゃないのか、などという悪口も書き込んである。
したがって、この論文は批判的に読んで、乗り越えなければいけない対象なんです。これが委員会の後、僕がKさんに話した内容である。もっとも私のことだから、「君みたいに有り難がっとって、どないすんねん」とでも言ったにちがいない。あまりリアルには書かないほうが良さそうだ。「もう一度読み直してみます」とおっしゃっていたけれども、その後どのようになったのだろう。
▲先週末には大阪へ行っておりました。大阪城公園はクスノキの若葉でした。