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会長からのメッセージ −その55−

「会員名簿」

 大学に学生が戻って来て、にぎやかになってきました。うちの大学はいまのところ大学院がないので夏休み中は静かなのです。でもまた講義を始めなければなりません。

 さて、日本生態学会の名簿と役員の投票用紙が同封されてきました。全国委員の選挙では、各地区をうまく割り振って、若い女性の方々に、知り合いと否とに関わらず投票することにしている。しかし残念なことに僕が投票した方はなかなか当選しない。こういう投票形態は全くの浮動票であり、私の票は死票になってしまっているわけだ。そうならないために、最近は何人かのお名前を「参考のために」挙げてある。そういえば先日会長名で「候補に挙げさせていただいてよろしいでしょうか」とお願いをしたばかりであった。なるほど、それはこういう意義があるのだ。自分でお願いしておいて感心することもないか。

 名簿の会員名の後ろには会員番号が付いている。僕の会員番号は39だから、古い順に並んでいるのかも知れない。一番小さい番号は阿部永さんで3番である。阿部先生はたしかに僕より先輩である。最近私が勧誘した同じ大学のI先生は7000番台でぱらぱらと見たところこれより大きな番号は見あたらない。私が付き合ってきた大学院生もみんな番号が大きく、新しい人ほど大きいようだ。とすると入会の順番なのか。しかしそれにしては僕の番号が小さすぎるようだ。

 名誉会員の先生方を見ると吉良先生、四手井先生は1200番台、小野さんは1600番台だ。皆1000番以上だから、古い順ということはない。僕に近い番号を見ると神田房行君が37番だ。そこから次のような仮説が浮かんだ。ある時点で、そのときの全会員に番号付けをし、それ以後は入会者がある度に順番に番号を付けているのである。

 全会員に番号付けをしたのは地区会毎にやったのだ。そしてそれは僕が北海道にいる期間であったのだろう。北海道、東北、関東、という順番であったのにちがいない。九州の小野さんが吉良さんより大きな番号であるのはそれだ。各地区会では、今と同じアイウエオ順だったのだろう。阿部さんが3番、神田君が僕の前というのはこれに符合する。ただし名簿は一時アルファベット順であったこともある、阿部が最初であってもどちらとも決めかねるぞ。そこで大原君の番号を調べてみると25番だから、これはアイウエオ順だ。僕が全国委員だったころの北海道地区は会員150名くらいだったから、北海道の古くからの会員は0番台、100番台、東北が100−200番台、関東が1000以下、近畿が1000前後、九州が1600以上で中四国はその間。ということでこの会員番号は会員数が2000名以下で、僕が北海道地区会に属して居た頃につくられたに違いない、ということが解明された。関東地区で古くからの会員というと松本忠夫さんが700台、大沢雅彦さんが300台だ。東北はということで広瀬忠樹さんを調べてみると600台だ。れれ?これはおかしいぞ。仮説は棄却されるのか。そうではないらしい。これは広瀬さんが東北に移られる前、関東地区での番号なのだろう。そうすると番号付けの年代が推測できる。1970年代か80年代のはじめなのだろう。当時東北におられた菊池多賀夫さんは100番台の後ろだ。

 ということで30年ほど前にその当時の会員対象に番号付けがなされた。その後は入会の順に番号がふられている。ということのようだ。30年の間に会員は倍増し、2000人増えているが、実際はこの間に5000人以上が入会されている。新入会のうち、3000人くらいが残り、最初の2000のうち残った人と合わせたのが現在の会員である。残留率は高いほうだといってよいのだろうか。平均滞在時間とか、成長率とか平均年齢とかいろんなパラメータを他学会と比較したら面白いかもしれない。

 会員名簿で遊んでいるのは楽しいが、やはりよほどのひま人だと思われそうだ。実はそれほど暇ではなくて、後期の講義が始まっているし、今月は講演が3つある。それに10月は結構いろんな書類書きの多い月である。生態学会としても科研費の申請(公開講演会と出版助成)を出さなければならないが、出版助成に関しては、出版社を入札によって決めろという難題が持ちかけられている。これについては別の機会にくわしく報告します。

▲インテコルの学会の後にエクスカーションで大学演習林を案内して貰った。先に見える島ではクロクマが見られますという案内だった。クマを見に行きましょう。同行のH君が「え!ビール!、ビール大好き。行きましょ行きましょ」と言ったから大笑い。皆から「ミスターびあー」とからかわれていた。