食品偽装について今更尻馬にのって「けしからん」と言ってみてもしかたがないのだが、やっぱり表示と中身がちがうなんて、実にけしからんことである。それにも増して、パート社員など弱い立場の人に責任を押しつけるなどとは許し難いことである。こういう話を聞くと、僕の怒りは久しぶりに燃え上がるのである。
表示されていることが信用できないのならばいったい何を信じたらよいのか?これに対する答えは、実に簡単なことだな。自分の五感、とりわけ舌を信じるしかないのですよ。古来ヒトは自分の舌や鼻を信じて、腐ったもの、おかしげな味のものには手を出さなかったから、今日まで生き延びてきたはずである。しかしなかには勇敢な人もいて、未知のキノコを食べてみたり、腐りかかったものに手を出して、納豆だとか、ヨーグルトなんかを発見してきたのだろうな。しかし近年、添加物なんかが多くなってきて、表示して貰わなければ、自分の舌だけではなんともならなくなってきたわけだ。だからその表示が嘘ではまったく困るわけですよ。
などといつになくまともな一般論を書いておいて、しかし僕は「騙されるほうが阿呆や」という意見の持ち主なのである。たとえば、骨董品なんてのは99%が偽物である。偽物をつかまされないようにするには、自分の眼力を鍛えるしかない。騙されたといって訴え出たという話を聞かないし、訴えたところで「阿呆や」といわれるのがオチだろう。我々の作り出す研究論文などは、嘘ではないがその大部分はコピー商品である。コピーかどうかを見分けるには、やはり眼力を必要とする。ただし眼力があるほうが幸せかというと、そんなことはない。若くして眼力を具えている人がいるが、そういう人にかぎって自分の業績はさほどでない場合が多い。この学界にはまだ評論家という職分はないから、評論だけしていても食っていけない。自分の学力も上がり、業績も増えるに連れて眼力も上がるのがよいようだ。
ところで私が心配しているのは、自分の出す単位や、書いた推薦状や、あるいは大学の出す学位が「偽装である」と告発されるんじゃないかということである。推薦状などは、自分でもどうかと思うほど誉めてあるから、どうもあやしい。もっとも、読むほうも最初からそのあたりは心得ているはずだが。
そういえば、「オランダのW教授が学生を募集しています。ついては推薦状を書いて下さい」、とI君に言われて書いたことがある。けっこう良い条件だったらしく、世界中から応募があったはずである。それにI君はうまく通った。そんなに競争がはげしかったのになんでお前が通ったんや、と尋ねてみたことがある。「他の推薦状は誉めてばかりだったのに、菊沢さんのは欠点も書いてあったので」信用できるとWさんが思ったらしい。なるほど、そういうものか。これからは欠点も書くことにしよう、とその時は思ったのであるが。どうしても就職して欲しい、と思うような人の場合は、やはり力を入れて書くことになる。手書きの時代には握るボールペンに力をこめて書いたものだが、最近そんなことをしてもキーボードが壊れるだけだ。で、その力は誉める方に転化してしまう。
お菓子の業界は、偽装問題を再発させないために、内部基準を作っておられる。そのなかには、食糧難の時代に育ち、道路に落ちていたチューインガムを水で洗って噛んでいた僕から見て、首をかしげるようなのがある。賞味期限のきたラベルの張り替えは駄目、というのは当然としても、あんこの再利用だとか、売れ残ったパンをラスクに作り直すのもダメといわれると僕は釈然としないのである。リサイクルだから、使うことは差し支えないのじゃないか。問題は偽装で騙すことにあって、再利用することではないはずだ。こういうところで問題がすり替わってゆく。
▲2002年にソウルでインテコルが開かれました。ソウルの地下鉄で前に座って居眠りをしている人を描いたもの。