| 要旨トップ | 目次 | 日本生態学会第70回全国大会 (2023年3月、仙台) 講演要旨
ESJ70 Abstract


一般講演(ポスター発表) P2-142  (Poster presentation)

百舌鳥・古市古墳群周辺における植生景観の変化と要因【B】
Landscape changes and factors around the Mozu-Furuichi Kofun Group【B】

*今西亜友美(近畿大学), 今西純一(大阪公立大学)
*Ayumi IMANISHI(Kindai Univ.), Junichi IMANISHI(Osaka Metropolitan Univ.)

 30by30目標を達成する方策の一つとして,OECMに注目が集まっている。都市緑地はOECM候補の一つであり,特に神社や城跡など文化遺産に付随する緑地は,希少種の生息地となっていることが報告されている。本研究では,都市内の文化遺産に付随する緑地の一つである,古墳に着目する。古墳は,宗教的・文化的背景から開発を免れ,墳丘や外縁部が森林化しているものもあるため,都市内の貴重な生物の生息地であると考えられる。しかし,その生物多様性保全上の価値を明らかにした研究はほとんどない。本研究は,古墳の生物多様性保全上の価値を検討するための基礎資料として,特に古市古墳群を対象とし,市史,絵図,航空写真等を用いて,江戸時代以降の植生景観と政府や地域住民の関わりとの関係を調査した。
 羽曳野市史によると,江戸幕府は1600年代後半にいくつかの古墳において,山頂の一部を垣で囲み,鳥居を造るなどの改修・保全を行っていた。一方,当時の地域住民は,周濠の水を農業用水として,墳丘を耕地や薪の採取地として利用していた。しかし,1800年代中頃に幕府が行った改修で,墳丘の耕地の接収,管理人の設置,立ち入り禁止の厳命等がなされた。この改修の際に描かれた文久山稜図では,墳丘にマツの絵が描かれていることが多い。明治時代初頭の文書によると,この改修の結果,墳丘がクズ等に覆われ藪化したことが読み取れる。明治時代になると,政府は地域住民に枯れ木等の利用を許可する代わりに,掃除を請け負わせる仕組みを構築していった。しかし,大正末年には皇室陵墓令が制定され,原則として古墳の現状変更が禁止された。戦後の空中写真からは,いくつかの古墳で疎林から樹冠が閉鎖していく様子が読み取れる。現在は,クヌギやカキ等の広葉樹が生育している古墳もあるが,株立ちになっているものは少なく,おそらく戦後に植栽された樹木が伐採されずに成長したものであると推測された。


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