公開シンポジウム: 生物標本情報の活用による保全遺伝学の新展開
概要
■日時 2020年2月4日(火) 14:00 - 17:30
■会場 東京大学大学院農学生命科学研究科・フードサイエンス棟中島ホール
■企画者 石濱史子、今藤夏子、竹内やよい(国立環境研究所)
生息地の分断化や環境変化が集団内の遺伝的多様性の変化や近交弱勢、外来遺伝子の流入などの遺伝的な仕組みを通じて、どのように集団の存続性に影響するかを明らかにする保全遺伝学的アプローチは、生物多様性に対する気候変動のインパクト評価などにおいても近年ますます重要になっている。特に地域内・地域間の種内の遺伝的変異や種間の系統関係に関しては、これまで分類学や遺伝学、系統地理学的手法により、標本採集、遺伝的多様性・系統解析が進められ、様々な生物種の遺伝的・系統的空間分布パタンの知見が主にマーカー遺伝子を用いて蓄積されてきた。これらの蓄積された分布パタンの知見を活かし、適応進化のカギとなる形態・形質や遺伝子の地域内・間変異や、環境との相互作用を詳細に明らかにすることが、生物多様性の保全における次の課題となっている。博物館の持つ膨大な標本や文献情報は過去から現在にわたる形態・形質や遺伝子の分布情報を含んでおり、これらを活用することで時間的変化や広域での評価が可能となることが期待できる。しかしその一方で、標本情報は必ずしも網羅的調査に基づくものではないため、採取地域・分類群の偏りや、サンプル数が限られることなど、保全遺伝学において活用していく上では課題もある。
本シンポジウムでは、生物標本の収集と充実化、情報活用に向けての電子化・データベース化、次世代シーケンシング解析、さらに域外保全の実践まで幅広い話題を提供頂き、標本・資料等の活用や博物館との連携を通じて期待される今後の保全遺伝学の新しい方向性について議論を行う。
プログラム
14:00-14:05 | 「趣旨説明」 石濱史子(国立環境研究所) |
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14:05-14:35 |
「東南アジアにおける植物標本の採集と多様性解析」
遠山弘法 (国立環境研究所) |
14:35-15:05 |
「モンスーンアジアにおける淡水生物標本等のデジタル化に関する取り組み」
鹿野雄一(九州大学) |
15:05-15:35 |
「標本の遺伝情報から明らかとなった草原性絶滅危惧種の減少要因」
中濱直之(兵庫県立博物館) |
15:50-16:20 |
「生きた植物標本の価値を究める-野生絶滅種コシガヤホシクサの域外保全と野生復帰から」
田中法生(国立科学博物館) |
16:20-16:50 |
「系統地理と保全遺伝:歴史と適応まで考慮した生物多様性保全を目指して」
岩崎貴也(神奈川大学) |
16:50-17:05 | 「コメント」 細矢剛 (国立科学博物館) |
17:05-17:30 | 総合討論 |
要旨
「東南アジアにおける植物標本の採集と多様性解析」 遠山弘法 (国立環境研究所)
東南アジアは基礎的資料となる植物標本の蓄積が最も乏しく、植物の多様性がきちんと評価されていない地域の一つである。本講演では、2010?2018年にかけて2つの方法(固定プロット調査、トランセクト調査)で蓄積した標本の種同定やそれを用いた多様性解析について紹介する。
カンボジアは、生物多様性が高く、その減少が危惧されている国の一つである。また、内戦の影響で植物相調査が不十分であり、プロット樹種の同定信頼度が低い国でもある。そこで、講演者は現地調査で固定プロットの樹木を採集し、DNAバーコーディングで科、属の同定を行い、KewやLeiden等の標本庫で69科327種の種同定を行い、図鑑を作成した。同定後、12年間の種多様性・系統的多様性の変化を調べたところ、1つの違法伐採は0.34種減少させ、2003万年分の系統的多様性を消失させた。この結果は、違法伐採の種多様性・系統的多様性・系統的群集構造に対する効果の大きさと方向性を示した初めての結果であり、長い歴史の中で安定的に維持されてきた群集組成が、違法伐採により急激に変化させられた事を示唆している。 東南アジア熱帯林の「どこに、どんな植物がどれくらい存在しているのか?」という基礎的な疑問に答えるため、約150地点でトランセクトによる植生調査を行い、種多様性の高い地域を特定した。上記を通して、4万5千点ほどの標本を作成した。植生調査を通して、講演者らは33科73種の新種記載を行った。
「モンスーンアジアにおける淡水生物標本等のデジタル化に関する取り組み」 鹿野雄一(九州大学)
これまでの長い生物学の歴史において,数多くの生物標本が蓄積されてきた.しかし,それらの標本は,個人,研究室,博物館にて収蔵されてはいるものの,有効に活用されているとはいい難い.その大きな理由として,気軽に標本に直接アクセスすることができないことがあるだろう.特にタイプ標本などは厳重に管理されており,容易に手に取ることはできない.また,生物標本は常に紛失や焼失のリスクを常に抱えている.そこで本取り組みでは,モンスーンアジアの淡水生物を中心に,生物標本や生物目撃観察データデジタル化する取り組みを行っている(https://ffish.asia).デジタル化は,画像,動画,CTスキャンデータ,音声(サウンドスケープ)データ,DNA配列データなど多岐にわたり,互いに関連付けられて体系的にアーカイブされている.このようなシステムは単に「図鑑」としての役割だけではなく,生物標本を消失・紛失から守るデジタルバックアップや,今後拡大していくであろう深層学習分野への利用が高く期待される.
「標本の遺伝情報から明らかとなった草原性絶滅危惧種の減少要因」 中濱直之(兵庫県立博物館)
草原は戦前までは非常に身近な生態系であったものの、近年の生活様式の変化により草原の必要性が薄れた結果、過去百年間で草原環境は大きく失われた。こうした中、草原性生物はどのような歴史をたどったのだろうか。過去に得られたデータが存在しない限り、過去の個体数を直接推定するのは通常きわめて難しい。しかし、生物標本の遺伝情報にアプローチすることで、過去の遺伝的多様性や構造、有効集団サイズなどのデータを得ることができる。
本研究では、関東~中部地方に分布する草原性蝶類の一種コヒョウモンモドキを対象とした。本種は環境省レッドリストにおいて絶滅危惧IB類に選定されており保全対策が望まれる一方で、愛好家からの人気が高く、多くの標本が作製されている。本種の標本や新鮮なサンプルから、過去30年間の遺伝的多様性や有効集団サイズの変遷を明らかにするとともに、これらに対する生息地面積や気候変動の影響など評価した。その結果、多くの集団において、遺伝的多様性と有効集団サイズは減少傾向にあり、それらには草原面積の減少が有意な影響を与えていた。また、30年前と現在の遺伝構造を比較した結果、集団間の遺伝的分化が増大傾向にあることも明らかとなった。
本講演では、こうした一連の研究を紹介するほか、現在研究を進めているDNAの長期保存に適した標本作製手法開発の成果についても報告する。
「生きた植物標本の価値を究める-野生絶滅種コシガヤホシクサの域外保全と野生復帰から」 田中法生(国立科学博物館)
なぜ植物園は植物を生きたまま保存するのか?ー生きた保存植物は、研究への利用、遺伝資源としての保存、教育への利用など、様々な価値を持つ。植物園はその歴史の中で、結果的にあるいは戦略的にその価値を保存してきた。さらに近年では、野生復帰への個体群供給としての役割が重要となり、新たな価値が付加されるようになった。ところが、その役割を担うための知見や体制は脆弱である。生息域外への導入時の遺伝的組成の偏り・多様性の低下、導入後の栽培選抜・近交弱勢など保存個体群の遺伝的劣化に対する研究や対策はほとんど行われてこなかった。そのため、先の問いへの答えは、植物園はどのように植物を保存すべきか?ーという自問に繋がる。
演者らは、野生絶滅植物コシガヤホシクサ(ホシクサ科)の生息域外保全と野生復帰に関する研究を進めている。本種は一年草で、現存するのは1集団のみであるため、栽培保存方法が野生復帰と種の存続に大きく影響すると考えられる。栽培下での実験により交配・繁殖特性が明らかになるとともに、一部の適応度指標形質や生育環境において近交弱勢が検出された。これまでの結果は、栽培環境の管理や系統毎の栽培計画が、本種の保全と野生復帰に重要となることを示している。
コシガヤホシクサの実践的保全研究の紹介を通して、植物園における生きた植物標本の価値を維持し高める方法を考えたい。
「系統地理と保全遺伝:歴史と適応まで考慮した生物多様性保全を目指して」 岩崎貴也(神奈川大学)
近年では、野生生物を保全する際、個体数や生育地だけでなく、種内の遺伝的地域性(遺伝的分化の地理的パターン)やESU(Evolutionary Significant Unit)までを考慮した保全計画の策定が求められるようになってきている。遺伝的地域性を調べ、そのパターンを形成した歴史を明らかにする系統地理研究は、その生物を保全していく上で重要な基礎的情報を提供してくれる。様々な地域で採集された標本は、採集された当時のDNAをタイムカプセルのような形で保持しており、採集が難しい種の系統地理解析用サンプルとしてはもちろん、うまく活用することで数十年間における遺伝的組成の変化までも検出できる可能性がある
一方で野生生物は、分布域内の多様な環境に対して各地域で独立に局所適応をしていると思われ、本来はそういった適応の実態まで考慮した保全が必要である。限られた場所の非常に特殊な環境に対する適応は比較的評価しやすく、研究例も蓄積されてきている。しかし、温度や降水量、標高など、地域によって連続的に変化する環境への適応の場合、適応遺伝子の特定はもちろん、「どの地域でどのような適応があるのか」といった局所適応の地理的パターンの解明も容易ではなく、保全での活用も十分には進んでいない。本講演では、網羅的サンプリングと次世代シーケンシング技術を用いて検出した遺伝的変異の地理的分布情報を用い、中立な遺伝的地域性やそれを形成した歴史に加えて、地域的な局所適応のパターンを景観ゲノミクス解析で予測・可視化した試みについて紹介する。歴史と適応の両方を考慮することで、その種の「あり方」をより正確に捉えることができるようになり、有効な保全へと繋がることが期待される。また、歴史と適応を考慮した保全を進める上で、標本情報の有効な活用方法についても議論したい。