日本生態学会

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「生物」関連教科書の検定に対する意見書

【序文】
【本文】
【別紙】「生物Ⅰ」教科書検定における具体的な問題点

【序文】

2003年1月16日

文部科学大臣  遠山敦子 殿

 昨年4月から小・中学校において実施され,来年度から高等学校においても実施される新学習指導要領については,実施以前からいくつもの重大な問題点が指摘されておりました。

 その問題点の一つが,授業時間の削減に伴う各教科・科目の内容の削減と,それに伴う児童生徒の学力低下であります。ことに科学技術立国を目指すわが国において,最も重視すべき教科である理科において,この問題は極めて重要であります。すなわち,小・中学校の理科おいては各学年間の内容のつながりを,高等学校の理科においては各科目間の内容のつながりを重視しなければならないにもかかわらず,それが軽視された学習指導要領が出来上がっております。
この状況をいっそう悪化させるのではないかと憂慮されているのが,教科書検定作業です。すでに使用が開始されている小・中学校の理科教科書では,教科書執筆者や編集者だけでなく、教科「理科」関連学会協議会からも,検定内容に対する疑義が出されておりました。更に,昨年4月に公表された高等学校の教科書検定結果を検討してみますと,理科の各科目の検定に多数の問題があることが明らかになり、理数系学会教育問題連絡会は,高等学校の理科と数学教科書の検定に関する意見書を,昨年7月に提出いたしました。

 しかし,昨年の高等学校の理科教科書検定結果では,特に「生物Ⅰ」教科書の検定に極めて重大な問題のあることが明らかになり,このような検定を通った教科書を用いて学習を進めた生徒たちが今後の日本を背負っていけるのかどうかを考える時,私たち生物科学の研究者や教育者は大変な不安を抱かざるを得ません。そこで,今回,生物科学学会連合は,「生物」関連教科書の検定に対する意見書をまとめ,それらの教科書検定に携わる関係者各位の格段の配慮を要請することになりました。

 21世紀は生物科学の時代と言われております。このような時代にあって,わが国の将来を担っていく若者たちの「確かな学力」のためにも,教科書検定のあり方を含めた教育政策の根本的な再検討を文部科学省に強く求めるものであります。

生物科学学会連合 代表(世話人)
日本細胞生物学会会長 永田 和宏

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【本文】

「生物」関連教科書の検定に対する意見書

2003年1月16日

生物科学学会連合(アイウエオ順)
日本遺伝学会日本生物教育学会
(社)日本解剖学会日本生物物理学会
日本細胞生物学会日本生理学会
(社)日本植物学会(社)日本動物学会
日本植物生理学会日本発生生物学会
日本進化学会日本比較生理化学会
日本神経化学会日本比較内分泌学会
日本神経科学学会日本分子生物学会
(社)日本生化学会日本免疫学会
日本生態学会
      

 理数系の教科書検定およびその前提である学習指導要領の総括的な問題点については、すでに本年7月26日に理数系学会教育問題連絡会から「教科書検定に関する意見書」が文部科学省に提出されている。

 今回の検定では、特に「生物Ⅰ」教科書の検定に関して問題が多く、日本の生物教育の将来に重大な欠陥を与える可能性があることを指摘したい。すなわち、今回の検定の内容は、現在、世界的に進行している生命科学の発展に逆行するものであり、日本の生物教育を歪めるものである。生物科学学会連合はこの点を重視し、理数系学会教育問題連絡会とは別にここに意見書を提出する。

 今回の検定では、高等学校理科において、中学校での内容変更を補う記述や各科目ⅠとⅡとの分断を補完する内容が、いずれも学習指導要領の範囲外あるいは重複を理由に削除されている。そのため、特に「生物Ⅰ」においては進化の取扱いについて重大な問題が生じた。進化は生命現象を統一的理解に導くために欠かすことのできない理論であり、進化を学習させることは生物教育において極めて重要である。しかし、新しい学習指導要領においては中学校で進化を取扱わなくなっただけでなく、「生物Ⅰ」でも進化を扱わず、履修者の極めて少ない「生物Ⅱ」で扱うことにしてしまった。これは生物学の立場から見る時、大きな欠陥である。そこで生物教育者・生物研究者も加わって作成した「高等学校学習指導要領解説」では、この欠陥を補うべく「生物Ⅰ」および「生物Ⅱ」の目標の中に、「生物の持つ歴史性を理解させることが大切である」と書かれている。それにもかかわらず、今回の検定では、「生物Ⅰ」において進化的視点に少しでも触れた記述は、検定において欠陥箇所との指摘を受け、削除・修正を余儀なくされた。

 今回の学習指導要領の改定に伴う新しい高校学校教科書の検定申請数は各教科の総計で393点あり、その中で、不合格となったものは6点で、そのうち3点は「生物Ⅰ」であった。また、従来どおり理数系教科書に対する欠陥箇所の指摘は他の教科の教科書に対する指摘より突出して多かったが、その中でも、「生物Ⅰ」への指摘が全体のほぼ60%を占めた。合格となった教科書でも100箇所以上が欠陥箇所として指摘されており、それらのかなりの部分が学習指導要領に照らして不必要、あるいは不適切という指摘であった。このことから類推できるように、今回の「生物Ⅰ」教科書の検定は今までにも増して異常といわざるを得ない。

 内容の科学的な扱いについては、【別紙】に示すようにいくつかの問題点があり、教科書検定のあり方そのものを疑わせるものである。特に各章間の関連がなく、断片的な現象の羅列に終わっており、教科として「生物」全体を理解できるような検定になっていない。教科書検定の目的として、記述内容の誤りを正すとともにわかりやすい教科書を作るということがあったはずである。今回行われた「生物I」教科書の検定作業は、そうした目的を忘れて、教科書を学習指導要領の枠内に閉じ込めることに専念してしまった。その結果、各教科書はわかりやすい内容とはならず、個性を奪われ、画一的なものになってしまっている。これは教育の多様化に逆行するものである。

 また、生物用語についても問題がある。例えば、従来使われてきた「近赤外光」を「遠赤色光」に変更するように指摘された。文部省学術用語集には「近赤外光」が収録されており、「遠赤色光」はなく、両者の整合性が問われる。学術用語集は多様な学術用語を整理統一する目的で、文部省において学術審議会の下にある学術用語分科会の審議を経て編纂されたものである。教科書に用いられる用語が、このような経緯を無視して教科書調査官の考えによって左右されるとすれば、担当者が変わるたびに教科書の用語が変更になる可能性もあり、これは由々しき問題である。

 ここに述べたことは氷山の一角にすぎない。今回の「生物I」教科書の検定における基本的問題のうち、特に重要なものを【別紙】のように具体的に指摘しておく。

 このように見てくると、今回の生物分野、特に「生物Ⅰ」の検定は、日本の次代を担う高校生に与えるべき教科書とは思えないものを作り出していると言えよう。

 我々、生物科学学会連合は「教科書検定制度そのものを根本的に見直すべき時期に来ている」と考えているが、現在の「生物」関連教科書の検定において問題となっている次の諸点を改善することを強く要請し、そのための協力は惜しまないことを表明する。

  1. 中学校・高等学校で教える「生物」は、これからの人類の指標を示す重要な教科内容であることを認識し、教科書検定にあたっては、いたずらに学習指導要領の枠内に閉じ込めるのではなく、「生物」を学ぶ生徒の理解を増す配慮をすべきである。
  2. 教科書検定にあたっては、学習指導要領だけでなく、その欠陥を補う「学習指導要領解説」の記述内容も尊重すべきである。ことに生物をとらえる際の根幹となっている進化的な視点を欠落させるべきではない。
  3. 教科書検定にあたっては、わかりやすい内容にするためになされた各教科書執筆者の努力と各教科書の個性を尊重すべきである。
  4. 教科書検定は科学的な根拠に基づいて行うべきであり、文部省学術用語集に掲載されている用語については、それに準拠すべきである。

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【別紙】

「生物Ⅰ」教科書検定における具体的な問題点

1. 「生物Ⅰ」の内容理解を助ける関連情報を削除させた

 平成14年度施行の中学校学習指導要領理科では、「イオン」や「進化」など、これまで中学理科で学習していた内容が削除され、「イオン」は高校の「理科総合A」、「化学Ⅰ」、「進化」は「理科総合B」、「生物Ⅱ」という選択科目に移行された。従って、生徒たちは高校でこれらを選択した場合のみ、初めて「イオン」や「進化」を学ぶ事になる。そのため、各社の「生物Ⅰ」教科書には、「イオン」をはじめ、「元素と物質」、「pH」、「ジュール」、「ルクス」、「分子」、「生体を構成する有機物」などについての補助的解説を加えた。ところが、それに対して、「資料の内容が細胞、生殖と発生、遺伝、環境と動物の反応、環境と植物の反応の的確な理解に資する程度を超えている」という検定意見がつき、結局、削除を余儀なくされた(A社、B社、C社等)。これらは高校での「生物Ⅰ」の学習に必須の物理化学的用語であり、それを生徒たちに伝えるために書かれた補助的解説である。そのような「理解に資する」ための旧来の中学理科レベルの情報が「程度を超えている」と判断する根拠は見当たらない。

 さらに、「生物Ⅰ」で扱った内容が、いつ、誰によって、どのようにして明らかにされたかを知ることは、科学の精神を学び、内容の「理解に資する」ために重要である。それにもかかわらず、「的確な理解に資する程度を超えている」として年表や「生物学のエピソード」の大幅な修正と削減が求められた(B社)。これらの修正や削減は、頁数の削減に貢献するだけで、生徒たちに学問の感動を与える機会を奪い、無味乾燥な知識の羅列としての教科書の殻に「生物Ⅰ」を閉じ込める結果となってしまうであろう。

2. 何のために「生物Ⅰ」を学ぶのかを不鮮明にしている

 「生物Ⅰ」を学ぶ最大の目的は、将来、生物学者として独立する人間を作るのではなく、自分がヒトという生物学的存在であることを理解し、その知識や考え方を体得することにより、自分や家族、社会構成員の健康や安全確保に資するためと考える。

 例えば、「生体防御」の章では、血球の種類を挙げ、それらが主に骨髄において作られる事実を述べた箇所が「血球はどこで作られるのかは、学習指導要領に示す「内容の取扱い」の(2)イの「体液の働きとその循環にふれ」に照らして「不必要である」と削除が要求され、修正により削除されている(A社、C社等)。がん治療などの際に行なわれる「骨髄移植」が必要な理由、そして「骨髄バンク」が何故、必要なのかを一般市民として理解する上で重要な知識を不必要とする根拠がどこにあるのか。

 「抗体産生」のしくみの中で、胸腺由来リンパ球のはたらきを述べた箇所も一様に「不必要」として削除された(C社、D社等)。胸腺由来リンパ球はエイズウイルス(HIV)の標的であり、エイズという社会的に重大な病気の理解や防止の面からも、生徒たちに胸腺由来リンパ球の存在とその機能を学習させることは、生徒たちの一生の健康保持に資するはずである。

 また、「ワクチン・予防接種」についての記述も「「平易に扱うこと」に照らして不必要」と削除され(A社、D社等)、なぜワクチンの予防接種が有効なのかを生徒に知らせる良い機会を奪ってしまった。

 さらに「抗体は免疫グロブリンというタンパク質からできており」という記述は「平易に扱うこと」に照らして「不必要」とされ、「抗体は特殊なタンパク質からできており」と修正された(A社、D社等)。「特殊なタンパク質」という呼び名より、固有名詞をあてた方が、短くかつ分かり易い。

「血液の凝固とその阻止法」についても「平易に扱うこと」に照らして「不必要」と削除された(B社)。これも将来の事故などによる出血の事態に対し、的確に対応できるよう基礎知識を持たせる絶好の機会であるのに、それが生かされていない。

 総じて、「生体防御」が単なる1項目として取扱われているだけで、何故、生物学を学ぶのか、自らを助ける科学リテラシーとしての「生体防御」という見地からの展開は皆無である。「生体の防御」の延長として、止血法や人工呼吸など救急医療の知識に展開すれば、生物学の学習がもっと、身近なものになるはずである。

 このように、高校「生物」においてヒトの健康に関する記載が不十分なのは、これらの取扱いが「生物」と「保健体育」に分割されていることも遠因であると思われる。米国の高校生物の教科書では、ヒトの健康維持、エイズ感染のメカニズム、喫煙と肺がん、向神経性薬物の脳にもたらす影響、アルコール中毒が与える胎児への影響等、「生物」を学ぶことがいかに生徒たちのこれからの生活に資するかを具体的に示している。この扱いは一考に値すると考える。

3. 「イオン」を避けて学習させようとしている

 先に述べたとおり、「イオン」は中学理科から高校「理科総合A」または「化学Ⅰ」に移行した。生徒たちに新しい化学用語を解説することすら認められないため、「生物Ⅰ」では「イオン」なしに種々の生化学的現象を説明しなければならなくなった。その弊害の一つは「細胞内外のナトリウムイオンとカリウムイオンの濃度勾配やそれらの能動輸送について」の記述において顕著である。ナトリウムイオン(Na+)をナトリウム(Na)、カリウムイオン(K+)をカリウム(K)と修正させている(B社、E社等)。これでは金属ナトリウム(Na)や金属カリウム(K)と同じことになる。このことは科学的に明らかな間違いである。これまで、「電子伝達系」を「電子」をいう単語を使わせないために、学問的に存在しない「水素伝達系」という造語を考案し、それを長年生徒たちに学習させていたことと同じ過ちを犯している(幸い、水素伝達系は今回の検定から電子伝達系になったが)。

4. 「環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)」の学習を不必要とした

 「環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)」は21世紀の人類の活動を考える上で重要な学習テーマである。しかし、環境の保全、地球生態系の維持を考える時、無視できないはずの「環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)」を取扱った部分は、「学習指導要領に示す「内容」の(2)ア(ア)の「体液とその恒常性」に照らして「不必要である」と一蹴された(B社)。21世紀を生きる高校生にこの事実を真剣に考えて欲しいというメッセージが伝わらない。

5. 「進化」的考え方を全て排除した

 これまで中学理科で取扱ってきた「進化」を高校「理科総合B」と「生物Ⅱ」に移行させたため、「生物Ⅰ」では進化的考え方を完全に排除している。例えば、「単細胞から多細胞へ」という単細胞生物と多細胞生物の説明を生物の進化を背景に展開している箇所が、[進化は学習指導要領に示す「内容の取扱い」の(2)アの基本的な事項にとどめ、羅列的な取扱いはしない] ことに照らして「不適当である」として削除された(A社、B社、F社等)。その結果「単細胞と多細胞」とが、かえって羅列的取扱いに堕している。「生物や生物現象の特徴は、共通性が見られると同時に多様性があること、・・・しかも、それらの要因が有機的な関連をもって働いていること、その理解を通じて科学的な自然観を育てる」(高等学校学習指導要領理科編第6章「生物Ⅰ」及び「生物Ⅱ」より。平成11年12月文部科学省)とする立場からすると、この検定意見こそが不適切といえる。

6. 箇条書きを禁止した

 「内容取扱い」の(2)アの「基本的な事項にとどめ、羅列的な取扱いはしないこと」に照らして、箇条書きは「不適切」と検定意見がついた。そのため、修正後は箇条書きにすれば分かり易い内容を文章中に並列に組み込んでダラダラと記述することになり、かえって分かりにくい文章になっている場合が多い(A社等)。

7. 生徒の興味・関心を高める教材を削除させた

 「細胞の寿命」とガンや個体の寿命を議論している囲みコーナーは「内容の取扱い」の(1)ア(イ)に照らして「不必要」と一蹴され、修正版では全面削除された(F社)。

 さらに、「成人1人の赤血球を全て地球の赤道上に一列に並べると地球を5周もする」という興味深く、かつ驚くような内容が、「細胞の物質組成、タンパク質についての解説は「内容の取扱い」の(1)ア(イ)に照らして「不必要である」として絵とともに削除された(B社等)。これら、寿命やヒトの体を構成する細胞数の多さなど、生徒たちに興味を持たせたり、教室で話題にしやすい内容にも削除を求めるのは果たして教育的であろうか? 内容の削除により、明らかに面白さも削除された。

8. 誤りの指摘が不完全

検定により、確かにタイプミスや記述の明らかな誤りを指摘される事もある。B社の教科書では、ある動物における細胞一個あたりのDNAの重量を2.58×10-12グラムのところを2.58×1012グラムと記載していた箇所の誤りが指摘された。これは、執筆者や出版社の手落ちで、それを検定段階で補うことは重要である。しかし、記述が不適当なまま、検定を通過することもある。例えば、ロバート・フックが望遠鏡で月の「ウサギの餅つき」を見ているという挿絵がある(F社)。このような非科学的挿絵を検定で見逃すことは、誤りのチェックという検定の本務すら必ずしも機能していないことを示している。

(註:教科書「生物I」のうち、主要6社のものについて分析した)

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