日本生態学会

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会長からのメッセージ -その3-

「3.11を前に」

 今年もまた3月11日がめぐってまいります.会員の皆さんの中にも特別な思いをお持ちの方がおられると思います.一日も早い復興と原子力発電所事故の収束を祈らずにはおられません.

 私があの日に体験したことを書き留めておきたいと思います.あの日は札幌大会のただ中,実行委員会委員長としての私の体験を今後の大会運営の参考にしていただければ,と思いキーを打ちました.

 あの時は,札幌コンベンションセンターの2階におりました.出版関係者と打合せのためです.長い横揺れが続きましたが,この会議場の建物は堅牢なので,どれほど大きな地震だったのか想像できませんでした.とりあえず,打合せを済ませ,大会を運営する立場に戻ったのですが,地震を自分が考えるべき事の中に入れることはできませんでした.

 しばらくすると会場のそこここで,東北で大きな地震があったらしい,「阪神淡路大震災」を越える規模の被害が出たらしい,という声が聞かれました.「まさか」という思いと「もしや」という思いが交錯しましたが,この時もまだ,自分の問題として捉えることはできませんでした.

 夜になり,いよいよ大震災・大津波であることが明白になっても,私の頭は浮遊した状態で,大会運営の雑事を優先させて,家に戻りました.疲れていました.ニュースなどで大災害であることがわかっても自分がなすべき事につながらないまま寝入ってしまいました.

 未明に目が覚めました.4時頃でした.興奮していたのだと思います.この時,初めて自分がやるべき事が見えてきました.家を出るまでに3時間あります.この間に実行委員会の組織を再編し,震災対策グループ,大会実行グループ,公開講演会グループに分け,大会を予定通りに進めながら,大会に参加している被災者への対策を模索する案を作りました.

 幸い実行委員会のメンバーはこの日いつもよりも早く集合しており,各グループごとに積極的に動いてくれました.特に震災対策グループの情報収集班と宿舎斡旋班は細かな指示を待つことなく,各メンバーの判断で迅速に対応策を提案してくれました.12日は大会最終日にあたり,道外各地へ戻る予定にしていた人がほとんどです.関東以西は問題ないとしても,刻々と変わる東北地方,関東地方の交通事情は必須の情報です.情報収集班は錯綜する情報を昼までに手際よく整理してくれました.

 これらの情報から東北地方に戻ることは不可能であることが分かりました.経済的に余裕のある参加者はホテルで延泊すればよいのですが,ぎりぎりの予算で参加してくれた学生会員を放って置くわけにはいきません.幸い北大の教員,大学院生から宿舎提供ヴォランティアの申し出が数多くありました.

 ヴォランティア宿舎を軸に宿舎提供案を検討し始めましたが,滞在がどのくらい長引くのか分からない状態をヴォランティア精神だけで乗り切れるのか,不安がよぎりました.また,被災者が分散して宿泊すると連絡体制を作るのが難しくなる,などの問題点も見えてきました.宿舎提供を希望する参加者が多ければ組織対応が望ましいと考えるようになりました.幸い私が所属する組織(北方生物圏フィールド科学センター)には研究林があり,苫小牧研究林の実習施設には30名ほど宿泊が可能です.林長の即決で受け入れ準備が始められました.

 情報収集班と宿舎斡旋班の迅速な対応で昼には被災者を集めて説明会を開くことができました.参加者は50名くらいだったと思います.このうち11名が苫小牧研究林に宿泊し,長い方で10日間ほど滞在したということです.

 よく旧日本軍は「兵は一流,将は三流」と評されます.危機管理の重要性が指摘される度に引き合いに出される言葉です.残念ながらこの大震災でも指導者に対して厳しい批判が寄せられています.正直に申して私の対応は「三流」の域を出ていませんでした.少なくとも3月11日の夜には,大会の開催について判断し,被災者への対応策を翌日に示すことを参加者に伝えるべきでした.幸い「大会の継続」,「被災者への対応策」はほとんどの参加者に受け入れられましたが,「結果オーライ」であったことは否めません.

 今後の大会運営では,大会運営の変更をどのように決定するか,その決定を参加者へどのように伝えるのかが,大きな課題だと思います.会場に来ている参加者には掲示や放送によって実行委員会の対応を連絡することができますが,会場に来ていない参加者には連絡がとれませんでした.勤務先などから実行委員会に参加者の安否確認が個別にあり,参加者に直接勤務先などに連絡を取ってもらうことを伝えたかったのですが,その手段がありませんでした.学会が情報伝達ツールをどのように使いこなすのかが課題です.

2014年3月3日 会長 齊藤 隆

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